一式飾り (市無形民俗文化財)

一式飾り 

 毎年平田天満宮の夏祭りの7月20日~22日に、町内ごとに飾り奉納しており、ユニークな民俗行事である。 平成元年3月27日には平田市(現在出雲市)の無形民俗文化財に指定された。

 一式飾りの起源は平田寺町町内で 保管されている「一式飾り史要」に明らかにされている。この一式飾り伝承の根拠となっている文書は、 昭和4年(1929)に遠藤義一郎(寺町町内)がまとめたものである。

 そのはしがきによると、一式飾り伝承は それまで口伝えだったり、小さい紙切れに多少記録されていた程度だったそうである。 将来、伝承が完全に途絶えてしまうことを危惧した遠藤氏は、一式飾り創始者、桔梗屋重(十)兵衛と親交があった 人々をはじめ、すぐれた一式飾り技術者などに聞いたり、神社や寺にもきいてこの文書を完成したと記している。

 御神輿(しんよ)御腰掛け并びに一式飾りの起源 寛政年間寺町に桔梗屋重兵衛なるものあり。表具職をもって 世間に知られ、常に神仏を崇敬(すうけい)すること多大なりしと云う。同人は悪疫の有無(うむ)に かかわらず天満宮のおたびを祭典の例式とすること、かつ寺町において神輿の駐御(俗に御腰掛けと称し 御休憩のこと)し賜わんことを一心に祈願し御神裁(ごし
んさい)を仰ぐこと3年に及び、ついに 寛政5年(1793)祭典当日御神勅(しんちょく)により祈願全部叶えり。

 重兵衛狂喜して先ず獅子を以って神輿を迎え奉ると同時に急遽茶器一式の飾りを考案し即ち茶臼をもって 米俵に扮し其の上に大黒天の立像を飾り、御神慮(しんりょ)を慰め奉れり。即ち御腰掛けの創始にして又一式飾りの起源なり。

 御通盆 御ニノ膳 他
(左)御通盆 (中)御ニノ膳 (右)御紋付本朱宗和形 御本膳  

 寛政年間に平田の寺町町内に信仰心が厚く表具師として広く知られた桔梗屋重(十)兵衛という男がいた。 その頃、平田天満宮の天神祭では悪病が起こった年に限り『おたび』(おたび/御神幸とは御旅所/おたびしょの略。 御旅所とは神社の祭礼に、神輿つまりご神体が乗るとされる輿が本宮から渡御して仮にとどまる所。

 ほかに、おたびのみや、みこしやど、おたびどころともいう。)が各町内をまわっていた。重(十)兵衛は このおたびを毎年行ってほしい、且つ寺町町内にもおたびをまねきたいとも願い、三年間神に祈り続けた。 (寺町はその当時比較的新しくできた町内であり、伝統行事であるおたびがまわるルートではなかったようである。)

 そしてついに寛政5年の天神祭当日に神のお告げがあり、重兵衛が祈り続けた2つの願いが聞き届けられた。 重(十)兵衛は大変喜び、寺町町内におたびがいよいよ向かうとき獅子舞で迎い入れ、町内でおたびが御休憩する 際には茶道具のみで大黒天立像を造り歓迎した。 つまり、重(十)兵衛の信仰心により、一式飾りが創造された訳である。

重兵衛の生涯

 桔梗屋重(十)兵衛は中雅堂と号して、彫刻や俳諧を得意とした風流人であった。 平田の古刹鰐淵寺の住職や極楽寺(重(十)兵衛の菩提寺)の名僧如海(にょかい)と親交を厚くしていた。

 家はとても貧しく厚紙を布団替わりにするほどであったが、本人は一切苦に思わず仏の悟りの道に精進した。 寺町には彫刻の得意であった重(十)兵衛自作の天狗面などが残っている。

 極楽寺過去帳には重(十)兵衛は文政2年(1819)8月21日に永眠したとある。最後に墓碑には10月22日と 記してあり調査する必要があると遠藤氏は結んでいる。これについては同過去帳の文化12年(1815)の頁に 10月22日桔梗屋重(十)兵衛の妻が亡くなったことの記載があり、おそらく墓石には家族の命日も 記載されてあり重兵衛自身の命日が薄れて識別できなかったのではと想像できる。

 残念ながら現在桔梗屋重(十)兵衛が亡くなった当時の墓石は無く確認は出来ない。 同帳にはさらに文化12年12月4日に重(十)兵衛の娘が亡くなった記載もあり、妻子に相次いで先立たれた 彼の寂しい晩年が想像できる。

参考資料:「一式飾り史要」

 桔梗屋重兵衛

桔梗屋重兵衛
桔梗屋重(十)兵衛直筆軸棒 1600mm

 昭和48年(1973)には重(十)兵衛直筆と考えられる筆跡が見つかった。 出雲市鹿園寺町(ろくおんじちょう)の鹿苑寺(ろくおんじ)の涅槃図軸物の表具替時にその軸棒に「寛政元年己酉三月二十九日表具師平田町母里戸七手傳桔梗屋十兵衛」とあったもので、この発見により重(十)兵衛が寛政年間表具師として生計を立てていたことがはじめて裏付けられたのである。