小村大雲(おむら たいうん)
平田出身で大正から昭和初期に文展、帝展で活躍した郷土を代表する日本画家の一人。
小村大雲(おむら たいうん)
小村大雲は明治16年(1883)11月9日、島根県楯縫郡平田町(現出雲市平田町袋町)の穀物荒物商、小村豊兵衛とカメの長男として生まれる。
30年に高等小学校を退校、翌31年両親の許可を得ず単身上京し、橋本雅邦の門や川端玉章の門をたたくが断られ帰郷、親戚会議で親の承認を得、広島で絵の修行をするが、訳あって脱門し、平田の鰐淵寺にあずけられる。
その後京都で修行し、36年には山元春挙に師事する。
大正元年(1912)島根の加賀浦で題材を得た「釣日和」が第6回文部省美術展覧会で第2科3等賞6席に入賞、以後3年連続入選、5年には「畫舫」が第10回文展で特選、以後も特選、無鑑査となる。 8年第1回帝国美術展覧会で「推薦」にあげられ、永久無鑑査となり、以後ほぼ毎年作品を出品し、委員、審査員など歴任する。
昭和10年(1935)明治神宮に壁画「京浜鉄道開業式行幸図」が完成。 13年、たまたま京都より平田に帰省中の2月20日、54歳の若さで急逝、平田極楽寺に埋葬される。
[順逆離合]:額装一面
明治36年(1903)第5回内国勧業博覧会出展 1950mm×1420mm
本作は、大雲十九歳の時の第五回内国勧業博覧会出品作。同会図録には「A Mud Lady」と英訳があり、狂女を描いた作品と知れる。
大雲の妹、キン(通称、秀/ヒデ)の話では、「さかがみ」を描いたものという。 さかがみは、謡曲「蝉丸(せみまる)」の主人公で、蝉丸の宮(謡曲では醍醐天皇の第四皇子としている)の姉、逆髪をさす。蝉丸は盲目で近江国逢坂山にすてられる。
逆髪は頭髪が逆様に生え、折々狂乱して御所をさまよい出る。そして藁屋に住む弟と巡り合い、互いの不運を慰めあい別れる話。貴賎、貧富、美醜という対立、再会と別離等が主題で画題もこれを意味すると思われる。
鬼気迫る女の左に薄ら描かれた建物を見るに、今まさに蝉丸に再会する場面だろうか。あるいは別れの場面か。 いずれにせよ、大雲が歴史画に本格的に挑んだ最初の作で、その僅か半年後の十二月、二十歳になってすぐ生涯の師山元春挙に弟子入りしている。
おそらく、本作は、大雲に多大な影響を与え、大きなターニングポイントになったようである。 人物の存在感、全体を包む張り詰めた空間等、荒削りの中にも大きな魅力があり、将来の大雲の大器を予感させる十代最後の記念碑的作品である。
[獅子図]:額装一面
605mm×975mm
鉛筆で丹念に描かれた獅子。 大雲の画号は明治34年(1901)にそれまでの豊文から改めたものであり、その直後から20代前半までの作と思われる。
獅子の取材は動物園の檻の前に床几をすえて、何日でもこれとにらみ合いをして、頭から足の裏まで仔細に写生研究したことが家族の覚書に残されている。
[虎渡河図]:屏風六曲一隻
明治39年(1906)1550mm×3620mm
この一隻屏風はおそらくはもともと対になっていたと思われる。口にくわえ、背に乗せて母虎が河を渡る様相が堅実な筆致で表現されている。
虎は特に大雲が20代によく描き得意とした図柄である。平田地方にもその頃の優れた作品が多く残っている。虎など動物園等でしか研究できない動物以外は、家で飼い忙しい揮毫の合間に朝夕研究したようである。
可能な限り多くの種類を飼い研究したため、近所の子供たちに「大雲動物園」と呼ばれ人気を集め、写生研究に熱心であったことをしるすエピソードのひとつである。
[大楠公]:額装一面
昭和10年(1935)早苗会展出品 1150mm×1465mm
昭和10年は楠木正成没後六百年にあたる年で、全国各地で記念行事が行われた。大雲は、武者絵を得意としたことでも知られ、本作は数ある中でも代表的な作の一つで、早苗会(大雲の師、山元春挙主宰の画塾)展の出品作でもある。
大雲の武者絵については親族の覚書によると、まず博物館陳列品を取材したりしたそうだ。武具研究はその後高熱化し、全国の知人を動員して古武具の蒐集をし、ついに国宝鎧の模造に着手、原寸どおりに部品を作らせ、2年がかりで大鎧を組立てたエピソードもある。
そうして、いかなる史実考証家も突っ込んでくる余地のない武具通となったと覚書は結んでいる。 さらに、大雲自らは「学術的な方面よりも、歴史画を契機としてその内に潜む内的なもの、人物の精神生活やある種の思想的なものを表現したいという希望」と語っている。
今まさに戦におもむかんとする武将の張り詰めた緊張感を、静的な構図でかえってきわだたせた本作は、「深みのある崇高とも云いたい其の人格の一端が表露」と自身評した大雲晩年の自信作で、絵の前で満足げな表情を浮かべた作者の写真が今に残っている。
本作品が描かれた同年大雲は、母校平田小学校で鷹狩の実演をおこなっている。これも日本古来の精神・文化を伝えようとした現われなのかもしれない。