石原豪人(いしはらごうじん)

 大正12(1923)~平成10(1998)(写真は29歳頃の豪人)

石原豪人 その卓越した画力と色気は常に大衆を魅了し続け、昭和30~40年代において絶対的な存在でした。 天才的な挿絵の魅力は幼少時代、郷土大社町で芝居小屋に通い続けた経験から起因し、映画雑誌に投稿し続けた少年時代にすでに大半が確立されていたのです。

 青年時代にモンゴルに渡り、会社勤めの傍ら映画看板を描き、そこで戦争を体験し、常に生死の境を生きる激烈な青春時代の中で奇怪で毒々しく、かつ色気という要素が加わり、そして何よりもカリスマ的な人をひきつける力が画に備わっていきました。 終戦後松江や東京で映画看板を描きましたが、肺を患い挿絵の世界へ…。 「明星」「平凡」等でスターの似顔絵を描き、たちまち売れっ子作家に。

 少年誌を同時にかかえ、殺人的なスケジュールをこなすようになります。「マガジン」「サンデー」「少年画報」「キング」「ぼくら」小学館の学年誌など伝説的な巻頭企画で常に引っ張りだこ。少女雑誌では江戸川乱歩と組み、少年誌では、円谷英二・香山滋らの「ウルトラQ」から始まった怪獣ブーム時代、数え切れない挿絵を描きました。

 3日で百匹の怪獣を描くと言う離れ業もこなしています。いつ起きていつ寝ているかもわからないほど多忙な時代でした。 時代の流れで少年誌の嗜好が変化していく中で、次第に豪人の作品は官能雑誌へメインを移していきます。豪人が使用した林月光というペンネームは、妖しい美少年、美女によって彩られ、今もその世界で信奉者が多いといわれます。

 平成になるといわゆるオタク系雑誌の中に石原豪人の作品が盛んに扱われるようになります。どこか「暑苦しく」「濃い」レトロで色気のある雰囲気の中に「笑い」「ユーモア」が盛り込まれた豪人の作風は若い読者を喜ばせました。

 時代の変化に多様に進化していった豪人の作品は、同時に彼の努力によって勝ち取られていったものです。自宅の床が抜けたほどの原画を描き続け、平成10年惜しまれながら他界しました。

洋画 [大洪水(仮題)]
洋画 [大洪水(仮題)]: 昭和40~50(1965~75)年代  295mm×410mm