増上寺宛書簡

昨日者御使僧殊葡萄一折被懸御意候。誠被入御念忝存候。如仰伊与守気色、然共無之迷惑之段可成御推量候。晝夜彼地罷在候処、御返事延引無本意候。大和守土佐守与伝言之通委可申聞候。恐惶謹言。七月廿六日

(昨日は御使僧ことに葡萄一折 御意にかけられ候。誠に御念を入れられ忝く存じ候。仰の如く伊与守気色、然れども迷惑の段これなく御推量なさるべく候。晝夜彼の地にまかりあり候処、御返事延引本意なく候。大和守土佐守より伝言の通りくわしく申し聞くべく候。恐惶謹言。七月二十六日)直政(花押)松平出羽守

初代松江藩主 松平直政/マツダイラナオマサ

慶長6(1601)~寛文6(1666)

 結城秀康(ユウキヒデヤス)の三男として近江国伊香郡中河内(現・滋賀県伊香郡余呉町)で生まれたと伝えられる。結城秀康は徳川家康の次男で、秀吉の養子となり秀康と名乗る。その後秀吉の指示で下総結城(現・千葉県北部から茨城県の一部)の結城城を継いで結城姓を名乗った。

 関ヶ原の戦以後、松平姓に戻し越前を治めた。母は三谷長基の娘で、秀吉の母長松院の侍女だったとも京都の遊女だったとも伝えられ、秀康の死後月照院と名乗った。

 幼名は河内麿。後に国丸と改め、慶長18(1613)年に出羽守直政と名乗る。翌年14歳で大坂冬の陣に初陣、大坂夏の陣でも活躍し家康より褒められる。

 松江に入城したのは37歳。藩祖として施政の基本方針を示し、緊急事態に応じられるよう軍役を定め職制を整備した。また信仰が篤く、故京極氏の後を引き継いで日御碕神社(島根県出雲市大社町日御碕)を完成させた。そして子供たちに信仰心を教え込むために、一緒によく参拝した。

 寛文6(1666)年に江戸藩邸で死去。66歳。生母月照院の霊碑を安置した月照寺(島根県松江市)に葬られる。この後月照寺は松平家の菩提所となる。