皇道凌夷歎式微。公候誰復賦無衣。鼎_在前吾己矣。輿窓揮涙拝斜_。吾己矣三字作恐敢遁 長門囚源一誠録

(皇道凌がんとして式微を歎き 公候誰かまた無衣を賦さん 鼎_前にあり吾己んぬ 輿窓涙を揮って斜_を拝す)

 

前原一誠/マエバライッセイ

七言詩天保5(1834)~明治9(1876)

 戊辰戦争(慶応4年~明治2年)で北越官軍参謀となり、越後府判事をへて参議にすすみ兵部大輔(陸軍大臣)となったが、政府内で意見が合わず辞職して故郷の萩(山口県)に帰る。明治7(1874)年に佐賀の乱が起き、県令を受けて三千余名の義兵と共にこれを鎮め名声を博す。

 当時新政府の施政に不満を抱く者が多く、不平士族から指導者と仰がれ、熊本での神風連(ジンプウレン)の乱を機に明治9(1876)年10月26日に奥平謙輔(オクダイラケンスケ)らと共に萩の乱を起こす。戦況は悪く、仲間と船で日本海を北上する途中、シケのため立ち寄った島根県簸川郡大社町・宇龍(ウリュウ)港で捕らえられた(11月5日夕方)。

 その夜は大社・藤村家で一泊し、翌6日松江に護送される途中に平田・本木佐家で一泊した。

 松江での取り調べが終わると萩へ護送され、再び取り調べを受ける。12月3日に除族・斬罪の宣告を受け、ただちに処刑された。